明孝陵古建筑测绘

2024-05-25

明孝陵古建筑测绘(共10篇)

明孝陵古建筑测绘 篇1

看完《明朝那些事》儿,我总想去明孝陵一探究竟。可由于疫情原因,明孝陵闭园了,这个计划就落空了,我就一直等啊等啊,终于等到明孝陵开园啦。我立马就拉上爸爸妈妈,直接奔向明孝陵七号门。

明孝陵是明朝开国皇帝明太祖朱元璋和他的马皇后的陵宫,这儿有远近闻名的石像路,满是花香的樱花园,梅花山,美如仙境的紫霞湖,还有长生鹿苑,孙权墓一众历史遗迹。明孝陵开创了明清皇陵独立风格,是一个具有划时代意义的皇陵。

进入七号门,穿过栈道,便来到孝陵的陵宫。跨过斑驳的金水桥,便来到到文武方门前,这是一座怎样的门啊?墙角挂着小晶铜铃,声音清脆好听,朱红色大门既威严又气派,穿过碑殿、享殿,就可以看到正门。嗯,几只梅花鹿在那安详的散步,还不时的发出“呦呦”鹿鸣,真是很可爱。登上大门的城墙,这里视野开阔,清晰,从这里可以远眺宝顶,山林树木葱郁,白云苍狗,朱元璋葬于此处,已经有六百多年的了,出了陵宫直行,前面的神道庄严肃穆,神道分为两段,一段是文臣武将翁仲路神道约250米,另一段就是远近闻名的石像路,也称最美600米,由六种神兽的石像组成,他们一站一跪,守护着陵园的主人。走近看着他们,虽然身上留下历史斑驳的痕迹,但却仍然栩栩如生。历史的岁月,光阴如流水,他们已经在这里六百多年了,过去代表着帝王无上的尊严,而现在却是我们国家珍贵的历史文物,代表着我们悠久的历史。

走过与明孝陵相依的东陵,就是紫金山的天池仙境,紫霞湖。清脆的水花在湖边绽放,一朵一朵的,特别玲珑有趣,有很多孩子们在岩石上下跳水,欢声笑语荡漾在湖面。清风徐徐,吹过水面,便有了一丝丝的涟漪,沿着小道前行,我们也路过了一座塔石,我小心翼翼的走过去,有惊无险啊!

明孝陵是漂亮的,是宁静的,是快乐的,是有着深深地历史的。这样的明孝陵,谁不喜欢呢?

明孝陵古建筑测绘 篇2

一、风水环境

明孝陵是中国传统文化的瑰宝, 她独特的风水文化意义, 历来为后世众多学者探究与追寻。因而, 作为打开明孝陵周边环境与中国传统文化内涵的黄金钥匙, 风水的独创性, 自然地成为我们研究的必经之地。

明孝陵的主人——朱元璋是苦寒出身, 但是在选择自己的最后居所时, 还是十分讲究、十分挑剔的。这从他所选择的陵址的风水上便可探知一二。

明孝陵是在蒋山寺的旧址上建造而成的。相传蒋山寺原为埋葬宝志法师的玩珠塔, 经唐朝改建, 并最终演变为宝公禅院。宋朝大中祥符年间更名为太平兴国寺。后朱元璋命刘伯温和风水师为自己选择一处环境清幽且风水绝佳之地兴建陵寝, 刘伯温跑遍了南京紫金山, 最后选中了古刹蒋山寺庙。这里背倚钟山, 面临前湖, 后有青山环抱, 前有二龙戏珠 (指江宁区的方山及方山左右的两条山脉) , 乃绝好的风水圣地。钟山紫气蒸腾, 为藏龙胜地, 朱元璋对此赞赏有加, 因而选中了钟山南麓这块风水宝地, 原寺庙奉命迁址, 以让位于皇陵。

明孝陵所处地名为独龙阜玩珠峰, 北面就是紫金山主峰, 东面有邵家山, 西面有富贵山, 南面有燕雀湖。符合风水中“负阴抱阳”的关系, 此地久有“前有照, 后有靠”的说法。从更大范围来看:紫金山是宁镇山脉的最高峰, 主峰东南面, 是宁镇山脉的另一支, 有宝华山、汤山、青龙山;西面有北极阁山、鼓楼、清凉山系直到长江边;南面有秦淮河、护城河蜿蜒, 还有江宁的方山等小山体。风水中还有望气、尝水、辨土石等做法。而紫金山土石为紫红色, 风水认为土石颜色以红黄白为上, 青次之, 黑为下。气的颜色以赤黄色为上, 青白黑色次之。

二、建筑环境

陵区入口的标志物刻有“诸司官员下马”六字的石牌坊 (一称下马坊) 及神道。嘉靖十年 (公元1531年) 建成的“神烈山碑”、崇祯十四年 (公元1614年) 树立的“禁约碑”。神烈山碑, 在下马坊东边36米处, 是明嘉靖十年 (公元1531) 立, 正面阴文双钩浅刻“神烈山”三字, 原有碑亭, 现已不存在, 仅存四角石柱础。神烈山碑是明嘉靖十年改钟山为神烈山时而立。再向东17米处有一块卧碑, 为“禁约碑”, 是明崇桢十四年所立, 碑文刻禁止损坏孝陵及遏陵的有关9条禁约。

在下马坊西北750余米处是大金门——孝陵的第一道正南大门。大金门原为黄色琉璃瓦重檐式建筑, 现存砖石砌筑的墙壁, 下部为石造须弥座, 面阔26.66米, 进深8.09米, 墙壁辟有3个券门洞, 中门较高为5.05米, 左右两门高4.25米。在大金门正北70米处, 是明成祖朱棣于永乐十一年 (公元1413年) 为朱元璋撰述的歌功颂德碑及碑亭。

明孝陵在神道设计上并未因循守旧, 而是富有创新。神道不仅不在陵墓中轴线上, 而且因形随势, 蜿蜒曲折。这种不拘一格的设计, 一般认为是法地, 或以为是象天。无沦是法地还是象天, 都与中国的传统文化有关, 都是中国传统文化的一种体现。明孝陵神道蜿蜒曲折的布局, 在中国历代帝陵中具有独创性。

从东向西依次排列着的石兽, 它们分别是狮子、獬豸、骆驼、大象、麒麟和马。每种石兽4只, 共24只, 分为两组, 一立一蹲, 南北相对。狮子是百兽之王;獬豸称为法兽;骆驼俗称沙漠之舟;大象是周边国家奉献的贡物;麒麟是祥瑞之物, 可以上天;而马比较驯良, 可供主人在地上行走。神道上安置这些石兽, 意图有这样几点:纪念朱元璋的功德;使谒陵的人感到死者的威严和国家的太平富强;祈望镇妖避邪, 以保护陵墓。

由这些皇陵周边的建筑就可以看出明孝陵的规模之庞大, 以及其所营造的肃穆、神圣的氛围。庄严之中透露的是皇帝至高无上的威严, 表现了皇权的神圣不可侵犯。

三、植被环境

明孝陵景区中有着我国现存的古代帝王陵墓中规模最大、最有特色的明孝陵、四大赏梅胜地之一的梅花山和梅花谷。景区中优美的自然环境与历史悠久的文化景观协调相融, 浑然一体。植物景观作为明孝陵景区的重要组成部分, 对明孝陵整体基调的确定是有相当大的作用的。因此, 归纳其植物景观的特点、挖掘其内涵和潜在价值是有意义的, 有助于使孝陵周边的植物景观发挥出更大的综合效益。

(一) 明孝陵周边植物的文化内涵简述

“植物景观”主要指由于自然界的植被、植物群落、植物个体所表现的形象, 通过人们的感观传到大脑皮层, 产生一种实在的美感和联想, 这一词泛指一切自然的、人工的景色[1]。植物景观可以使观察者在感知的基础上通过情感、联想、理解等审美活动获得其内在的美。自古以来, 就有许多文人与画家将园林植物感官上的美, 以及园林植物特有的生态学特性进行人格化。如“岁不寒无以知松柏, 事不难无以知君子”把松柏耐寒的特性比拟君子坚强的性格。人们赞誉梅、兰、竹、菊是“清华其外, 淡泊其中, 不作媚世之态”的“四君子”。此外还有梅花清致雅韵、青竹高风亮节、牡丹国色天香、玉兰幽谷品逸、荷花出淤泥而不染、水仙冰肌玉骨、杨柳婀娜多姿、合欢纤巧妩媚、石榴多子、红豆相思、萱草忘忧, 等等。可见, 将植物景观同中华民族的审美习惯和精神气质相结合, 对营造特定的氛围有着不可忽视的作用。

明孝陵建成于六百年前, 内部的动植物已有所改变。据说刚建成时陵园内亭阁相接, 享殿中烟雾缭绕, 松涛林海, 养长生鹿千头。鹿鸣其间, 气势非凡。由此可见明孝陵内的植物以松为主, 动物以鹿为主。松苍劲挺拔、四季长青, 好似皇权永固;鹿端庄优雅、逐鹿中原, 以求政权永握。明孝陵内种植有大量的松柏类植物。明朝的金幼孜在《瑞应甘露赋》中写道:“瞻彼孝陵, 松柏苍苍兮。”清朝陈文述的《秣陵集》中也有:“孝陵之建, 有松十万株。”清朝初年, 孝陵遭受了一定程度的破坏。屈大均在其《孝陵恭谒记》中就有记述:“旧有松数十万株, 苍翠荫森, 与岩石、云林相蔽兮, 皆六朝古物。今弥望无一存矣。”[2]

(二) 明孝陵周边植物的文化内涵分析

明孝陵位于长江下游南岸的宁镇山脉海拔最高的山峰钟山玩珠峰前, 背阴朝阳, 日照充足, 雨量丰沛, 气候温润, 四季分明, 属于亚热带气候。这里北依雄伟的钟阜, 南向无际的秦淮河平原, 土质优良, 植被良好, 常青乔木松柏为主的人工森林长势繁茂, 自然条件十分优越。

明孝陵主体结构包括两个部分。第一部分为神道区, 起自神功圣德碑碑亭折西的御河桥, 蜿蜒至陵宫门前的金水桥。第二部分是陵寝的主体陵宫区, 包括文武方门到宝顶之间的范围。明孝陵神道大致可以分为两段:第一段神道称石象路, 第二段神道称翁仲路。主体陵宫区主要包括石象路、翁仲路、陵宫门、碑殿、享殿、方城、明楼、宝顶。

现如今, 陵内种植着成片的人工林, 有雪松、金钱松、罗汉松等, 在大面积苍劲的绿色中, 掩映着杜鹃、桂花、紫薇、栀子花等各色的花朵。石榴和紫叶桃这些孤植景观树也让整个孝陵内透露出点点的生机。松林让人感到无比的严肃, 时刻感觉到明太祖让人诚服的帝王威严;点点花朵, 让明孝陵不再单调, 让人能感觉到生活的美好, 这也符合朱元璋将明孝陵用于逝后办公和生活的目的。高大乔木透露的是明朝的威严, 花和景观树展示的是皇家闲暇生活的安逸。神道环绕处, 山上植满梅花, 待到山花烂漫时, 这里风景独好。

1. 石象路周边植物的意义

石象路是孝陵神道的第一段, 长615米, 沿途依次排列狮、獬豸、骆驼、象、麒麟、马六种石兽, 每种两对, 造型均为一对站立, 一对蹲坐。这些神道石兽在美化神道的同时既标志着帝陵的崇高、圣洁、华美, 更起着保卫、辟邪、礼仪等象征作用。

在这些石兽后面列植有乌桕、榉树、银杏、枫香、圆柏, 为石象路增添了无尽的自然美。无论是春天竞相开放的梅花, 还是夏天的浓荫蔽日, 或是冬天干枯的树干所表现出的古老沧桑, 这些植物景观已然成为了明孝陵的一部分, 静静地诉说着这个古老的陵寝的历史。

2. 翁仲路周边植物的意义

翁仲路呈南北走向, 长250米, 神道两侧依次有白石望柱一对, 武将、文臣各两对。武将、文臣均一对有须, 作老年状;一对无须, 作青年状, 各高3米余。武将身着甲胄, 手持金吾, 腰佩宝剑;文臣头戴朝冠, 手秉朝勿, 他们神情肃穆, 威武端庄, 是皇陵的护卫者和忠实的守护者。

翁仲路两旁列植的深绿色的古树圆柏, 古老的身影映入到了游人的视野中。主干道两侧附属道路边的植物配置多以自然式为主, 主要植物种类有雪松、朴树、榉树、女贞、枳椇、阔叶十大功劳、杜鹃、桃、梅、鸡爪槭等, 这些植物具有鲜明的中国古代传统文化意义, 象征了儒家正统礼教思想, 在植物的衬托下使翁仲路的武将、文臣显得更加威武庄严。翁仲路共有圆柏53棵, 其中圆柏古树38棵。一股古老的气息随即扑面而来。

3. 陵宫门周边植物的意义

陵宫门又称“文武方门”, 在御河桥以北200米处, 是孝陵主体建筑的正门。文武方门前列植3排铅笔柏, 起引导视线的作用。铅笔柏下间植海桐球, 铺植沿阶草。铅笔柏、海桐、沿阶草均为常绿植物, 用来显示帝王的兴旺不衰、万古长青, 这些植物历来是古代皇家陵园的首选植物, 庄重之中象征了封建等级制度的森严, 以及皇家不凡于普通市民的特殊身份。文武方门前的绿地中物配置形式多以自然式为主。绿地中植物有秤锤树、红果榆、朴树、青檀、枫香、蜡梅等, 其中秤锤树、红果榆均为古树。御河桥俗称金水桥, 桥身分三道。桥旁种植圆柏, 桥上攀爬络石。石与绿色的植被, 红黄相间的建筑主体, 形成了明孝陵具有典范意义的陵园文化氛围。

4. 碑殿周边植物的意义

碑殿建于清朝, 因殿内竖立“治隆唐宋”碑而得名。碑殿前道路两侧列植铅笔柏和桂花, 铅笔柏下种植南天竹, 铺植沿阶草。铅笔柏、南天竹、麦冬均为常绿植物。众多常绿植物的应用显示碑殿庄严、肃静的气氛。碑殿四周的绿地中古树有北美鹅掌楸、朴树、圆柏等, 它们的存在为古老的建筑又增添了几许悠久的气息。绿地上还种植蜡梅、白玉兰、樱花、广玉兰等植物, 为明孝陵增添了富丽之感, 同时, 也丰富了陵园四季景观的色彩。

5. 享殿周边植物的意义

享殿位于碑殿后50米处, 是陵宫的主体建筑和最重要的祭享殿堂。享殿规模很大, 建于洪武十年, 毁于清朝咸丰年间的战火。享殿前对植古树柏木, 突出其古色古香的氛围, 增添了浓厚的儒家正统思想的意味。享殿所在平台上种植了3株榔榆古树, 树形婀娜。春季枝叶舒展, 秋季红叶满树, 树干终年可观, 将建筑生硬的线条柔和的恰到好处。享殿前的绿地植物配置的形式多以自然式为主, 主要植物种类有银杏、桂花、蜡梅、梅、樱花等植物。

6. 方城周边植物的意义

方城位于升仙桥后, 是宝顶前的大型建筑, 全部用大型条石筑成。方城上原建有宫殿式建筑明楼, 其顶部及木质结构已毁, 现仅存四面砖墙。在方城顶上远眺, 四周树木葱茏, 松涛阵阵。东面有中山陵, 南面是梅花山, 西面有中山植物园, 北面就是宝顶, 又称宝城。方城建筑历经沧桑, 现在方城周围的植物都是落叶植物如刺楸、黄连木、朴树、青檀等, 在寒冷的冬季只剩枝干树丫, 与建筑的古老沧桑气氛相益得彰。植物的荣枯和季相的变化在特定条件下可以将参观者的感受同生、死及轮回的循环联系起来。方城前的甬道两侧列植铅笔柏。方城前的绿地上片植蜡梅。冬季雪压枝头, 蜡梅怒放, 景色动人。

明孝陵是明太祖的生后居所, 他希望自己的孝陵能建在最能庇佑大明王朝和最能体现自身地位的地方, 希望自己王陵能展示自己生前气吞山河的雄姿, 能让人们永记他的恩威。明孝陵作为一座皇陵, 很好地透露了古代帝王皇权至上、皇权不可分的心理, 展示了皇家的绝对地位。它是统治者展示自己权威的地方。它的石雕, 它的布局, 它的建筑, 它的景观, 无一不在为展示帝王风采服务。而其本身的宏大、美丽也让人们对先民的智慧发出由衷的赞叹。

摘要:明孝陵是明朝开国皇帝朱元璋的陵寝, 位于南京东郊的紫金山南麓独龙阜玩珠峰。不仅是明孝陵本身, 其周边的环境也处处体现着中国的传统文化及皇权的至高无上。明孝陵的选址注重风水, 建筑规模宏大、建筑物精美, 周围环境优美、植物繁茂。植物景观作为明孝陵景区的重要组成部分, 更是于细微之处常年守护着这座伟大的陵寝, 在将帝王的皇权推向顶峰的同时也展示出了当时人民的智慧。

关键词:明孝陵,周边环境,皇权,中国传统文化

参考文献

[1]苏雪痕.植物造景.北京:中国林业出版社, 1994.

游明孝陵写景作文 篇3

游明孝陵今天,我们坐着地铁来到了我上次还没看完的明孝陵的后半部分。我们首先看了用石头刻的动物有二十四个,有六种每种有四个,前两个是蹲着的`,后面两个是站着的。其实这六种动物也不全是动物,有两种是野兽,其它四种是动物。接着我们又来到了下一个地方,这里的用石头刻的八个人,走近一看,原来这些是明朝开国皇帝朱元璋的八大文武将,其中四个是文将,四个是武将,武将在前,文将在后,可这些文武将里文将长的都一样,武将不用说,自然也一样。

只不过文将的动作、长相和武将不一样。最后我们又来到了舅舅所说的冬暖夏凉的地方,一进去,好凉快啊!终于能坐会了。听说明朝的时候朱元璋就呆在一个很神秘的地方,因为那里冬暖夏凉,可是现在还没有人发现,至今还是一个谜。今天玩的非常开心,只不过是夏天,实在是太热了。

明孝陵日语导游词 篇4

明孝陵は南京紫金山南麓に位置し、明代開国皇帝の明太祖朱元璋の陵墓であり、我が国に現存する古代最大の帝王陵の一つであり、今から6余りの歴史があります。朱元璋は、1320 __年に安徽濠州(今の鳳陽県)の貧しい農民の家庭に生まれました。少年の時に皇覚寺で僧侶をしたことがあります。1352年に元末農民蜂起軍郭子興の紅巾軍に参加しました。

洪武十四年(1381年)に朱元璋は自分の墓を作り始め、翌年には入馬皇后を葬りました。13朱元璋が病死し、ここに葬られた。なぜ孝陵と呼ばれていますか?馬皇后の死後は孝慈という称号を付けたという説や、朱元璋は孝治を主張していますので、明代は孝陵と呼ばれています。清の時代から「明孝陵」と呼ばれるようになり、今でも使われています。

馬皇后といえば、もう一つ面白い話があります。馬氏はもともと郭子興の養女であったが、朱元璋は郭子興の信頼を得て馬氏を子彼に嫁がせた。馬氏は幼い時から兵舎で育ち、手足が特に太いと言われています。古代の女性はスカートをはいていましたが、風が通りすぎて、馬皇后の大きな足が見えました。私たちがよく言っている「馬脚を現す」というのは、このことからきていると言われています。

今は孝陵陵門の大金門に来ました。孝陵全体は全部で前後二つの部分に分けられます。前は下马坊から格子星门まで、长さは约1800メートルで、案内する神道施设で、后ろは墓の主体霊床建筑です。明孝陵はもともと赤い壁に囲まれています。周囲は22.5キロで、奥行きは2.5キロに達しています。孝陵の規模の大きさがわかる。孝陵の建物はとても壮麗で、記録によると、植えたばかりの青松は10万本に達し、ニホンジカは1000頭余りを飼育しています。残念なことに、巨大な建築群は明代の清朝初期と清朝の太平天国鎮圧の二度の戦火にほぼ破壊されました。当時はすべての木造建築はすでに存在していなかったが、現存する煉瓦や石の遺跡からは、孝陵の当時の壮大な規模と我が国の古代建築の精巧な彫刻芸術が見られます。

この大きな金門はもともとは片側のひさしで山頂を休んでいます。頂には瑠璃瓦があり、南向きで、全部で三つの門の穴があります。もとの扉の頂部と東西の両側の霊園の赤い壁はすでになくて、しかし注意深く見分けて、さらに玄関の側面の壁から赤い壁とつながる痕跡を見ます。表門の正面の底に、石造のひげの弥座の上で、腰を束ねるところに浅い彫刻の石刻の碗の花があることが見えます。

ここから南に約750メートルのところにあります。すなわち現在の寧杭道路の北側の道端に「下馬坊」と「神烈山碑」と「禁約碑」があります。孝陵大建築群の入り口です。「下馬坊」には「諸司官下馬」が刻まれており、孝陵への尊重を示しています。「神烈山」の石碑は、明代嘉靖十年(1531年)に立てられました。「禁約碑」は、明代崇禎十四年に立てられ、内容は護陵禁約十条で、皆明代の遺物です。明の時代、孝陵の重地、駐屯兵の守備、孝陵衛を設置しました。禁止区衛に属し、明代の軍事基層組織であり、孝陵衛は兵士5600人を管轄しています。今孝陵衛の一帯は、その年に陵部隊の駐屯地として知られています。清代になると、ここはかつて清軍江南大隊の所在地であった。

大金門から稜園路を抜けて、四方城に来ました。私たちが見たこの建物を碑亭といいます。今亭の頂はもう壊れました。四つの壁と四つの門の穴だけが残っています。古い城のようです。だから俗に四方城と言います。皆さんが見た中间立の石碑は「大明孝陵神功聖徳碑」と呼ばれ、永楽十一年(1420 __年)明成祖の朱山吹が立てたものです。1376年に明孝陵が建立されてから、碑が建てられます。全部で38年が経ちました。孝陵工事は終止符を打ちました。この碑の身長は6.7メートルで、碑は2.08メートルで、現在南京地区で一番大きな古碑です。碑文は2746字に及び、内容は主に父の功徳をたたえた語である。

有心の友が、なぜこの「功徳碑」を建てたのかというと、明成祖の朱山吹がいかに皇位を奪取したのかという歴史に関係しています。朱元璋太子朱標は洪武二十五年(1392年)に病死しました。ただ16歳の皇太孫朱允?皇位継承者です。朱元璋の死後、朱允?彼は歴史上の建文皇帝です。当時北京にいた朱元璋の第四子である朱山吹は、「清君側」という名目で南下しました。四年間の「靖難の役」を経て、南京を攻略し、政権を奪取し、歴史的に有名な永楽大帝となりました。朱元璋功徳の背後には、巨木の特樹がある。このため、朱山吹は南京東郊の陽山で万人の民工を派遣して大きな碑を切り開きました。その碑の帽子、碑石の身、碑石の席は合わせて72メートルもあります。それからもう一つ探しました。これは今みんなが見ているこの功徳碑です。しかし、陽山碑材は今なお存在しており、「ギネス世界記録」と称され、明代遺跡の一大景観となっています。

石刻を見てください。それは亀のようで、「一龍が九子を生んで、九子が同じではない」と言い伝えられています。これは龍の九子の一つで、名前が___?古代では、このような大きな石碑をどのように「かめ」の背に立てたのですか?「文沙披海」によると、この石碑を建てた時、亀趺が高すぎて、石碑がなかなか立てられませんでしたが、この工事を管理する人が急に壊れてしまいました。目が覚めたら、彼は考えてみれば分かります。工事現場に着いたら、彼は人に土を運んで亀を埋めさせて、土坂に沿って碑を引き上げて、石碑が立つのを待ってから、土を取り除きます。迷信がありますが、「土積み」は科学的な道理に合っているようです。

はい、四方城を出て、御河橋を渡って、神道石像路に行きました。道の真ん中を見てください。東から西に順番に並んでいる石獣はそれぞれライオン、獬、ラクダ、象、麒麟、馬です。各種類の石獣は4匹で、全部で24匹で、二つのグループに分けられています。ライオンは百獣の王です。獬豻は法獣と呼ばれます。ラクダは砂漠の舟と呼ばれます。象は周辺の国から献上された貢ぎ物です。麒麟は瑞祥のもので、天に昇ることができます。馬は比較的におとなしいので、主人が地上を歩くことができます。神道にはこれらの石獣が置かれています。朱元璋の功徳を記念して、陵に参拝した人に死者の威厳と国家の太平富強を感じさせます。古代帝王墓の神道形式は、主人が生前に宮城御道を再現したもので、皇帝が旅に出た儀仗のように勇壮である。

石獣はうずくまって立っているところを設置しており、陵を建てる者の独特な意匠を体現しています。ある友達はこれらの石獣は皇陵に見張りを立てて、立って疲れてしゃがんで休んで、このように交替するのが良いと言いました。これは一種の推測かもしれない。しかし、景観の美学の角度から見て、石獣はしゃがみ立てていることがあって、姿はそれぞれ異なっていて、蒼山の遠い木で対比して、もっと厳かで厳かなことを現します。石獣の配列は、地勢の変化に伴って起伏し、起伏があり、空間分布のリズムとリズム感を体現しており、無音の音楽となっている。

また、石獣は体が大きく、芸術表現の手法は写実的で簡潔であるが、また彫刻的な局部がある。石像の耳を見てください。耳が膨らみ、筋肉が突き出ています。誇張に近いです。これらはまさに孝陵石刻芸術の大きな成功点です。このセットを観賞して生き生きとしていて、ビショップのようで、生き生きとしている石獣は、我が国の古代の職人の入神わざに感心させられました。

推計によると、石獣の中のラクダは高さ3.68メートルと立像に80トンの巨石が必要です。このような巨大な石材はどのような方法で神道に運んできたのですか?厳冬の季節には、民工が輸送路に水をかけて氷にし、それから前の方で後押しする方法で、一、二十キロ以外のところから運んできたのです。これらの石獣は古代労働人民の血と汗を流し、彼らの才能と知恵を凝集していることが分かる。

石像路の果てに、神道が東北に曲がり、石翁仲路に入るのを見ました。角を曲がったところに向かいの柱を立てます。つまり、よく言われている華表です。高さは6.25メートルで、雲竜の模様が刻まれています。ここで道を示す標識として使われています。

道の右側に梅の山という小山があります。梅花山、元の名前は孫陵崗で、また呉王墓とも言われています。一番早いのは三国東呉大帝の孫権墓の所在です。山の上で、1920 __年に梅の花を植え始めました。春先の季節になると、花は錦のようです。

神道はここで梅の山を回ると弓形になる。当時孝陵を建てる時、孫権の墓を移すようにと勧められたと伝えられています。朱元璋は、孫権も好漢です。彼を残して門を守ってください。しかし、神道の曲がった本当の原因は、朱元璋が神道の長さを上げるために、霊廟の勢いを増すという伝説があります。入り口からは霊床の「風水」を一目で見ることができないと信じています。したがって、孝陵神道の平面レイアウトは統一された南北中軸線を取りません。これは確かに朱元璋が伝統を破る革新です。明代の南京城壁の建築は同じです。山に従って水について、軍事の実用を重視して、伝統的な古いものの正方形や長方形に拘らず、不規則な平面レイアウトの形になります。周囲33.67キロは「世界一の大都市」と言われています。

石翁仲路の中には高さ3メートルの石翁仲(墓神道の石像)が四組あり、甲冑をまとい、金吾を執っている二組の武将がいます。これに対して清人の詩があります。「石馬が風の翁と仲立ち、子夜点朝班をためらう」と書いています。本当に神様の生前の宮城御道の様子が描かれています。これらの文臣、武将石刻の顔は厳かで、厳粛で、これはその歴史的背景があります。明の初め、朱元璋は廷杖制度を実行しました。大臣が皇帝を怒らせたら体罰を受けます。これらの翁仲達の固形した表情は明代の等級の森厳な封建朝廷と皇威の専制の描写ではないでしょうか?歳月は長くて、600年余り過ぎて、人の世の変転、文化財はもとのままで、それらはすべて歴史の目撃証言と研究の仕事の貴重な実物になりました。

次は私に従ってください。格子星門跡を過ぎて、御河橋のところで越橋して北に行きます。孝陵の主体陵墓建築を見物します。孝陵の後部の主体建築は文武方門、御碑亭、享殿、方城、明楼、宝城、宝頭などを含み、いずれも中軸線によって配置され、わが国の伝統建築の風格を体現しています。

まず見た文武方門は孝陵の正門です。元の五つの門は三大二小で、壊れた後は同じ治年間に一つの門に変えました。門額青石には「明孝陵」という陰文が刻まれ、曾国藩の手書となっている。今私達が見ている門はの初めに再び修復されました。正門のもとの姿を回復しました。五門、黄瓦、朱門、赤壁、互いに引き立て合い、流光が溢れ、雄渾で厳かです。大門の東の壁の南に、「特別告示碑」があります。碑は宣統元年(1920 __年)に立てられたもので、当時八国連合軍が北京に進攻し、円明園を焼き払った後、至るところでわが国の名所旧跡を略奪し破壊していることから、ここに鑑みて、地方官吏は日、徳、イタリア、英、仏、露の六国の文字で碑文を刻んで、孝陵を保護するための注意事項を再確認します。

入り口から遠くないです。頂上の建物が見えます。これが御石碑亭です。康煕、乾隆帝の題字の碑銘を立てたので、この名前が付けられました。御碑亭は元々孝陵が殿前の中門を享るので、孝陵門です。左と右には御厨、家畜亭、具服殿などがあります。ドアは壊れています。清代には原石の須弥座に現在のあずまやが建てられました。

あずまやに5つの碑が並べてある。真ん中に「治隆唐宋」という四文字が刻まれています。康熙帝のための手書です。碑の高さは3.85メートルで、幅は1.42メートルです。「治隆唐宋」とは、揚明太祖の治国方略が唐太宗李世民と宋太祖趙匡胤を上回るという意味です。満清皇帝である康熙がこのように天下を詔勅し、朱元璋に対する尊崇と感服の意を表した一方で、良苦の念があった。康煕政権の初め、漢人は人の支配に服しませんでした。康熙は、満人高気圧で国を治めるだけではいけないと知っています。彼は一生の中で六回南を回って、五回は明孝陵に参拝して、三拝九拝しました。「治隆唐宋」は彼の16に第三回江南で陵に参拝した時の題で、曹雪芹の祖父によって、当時の「江南織造」郎の中で曹寅が碑を建てました。彼はこの人心を籠絡して、漢の矛盾を緩和し、その統治を強化したいのです。康煕の偉大な才能の大略が見られます。「治隆唐宋」の碑の左右には乾隆詩碑があります。碑の後のものは碑の二つがあります。それぞれ康熙を記録しています。乾隆が陵紀事に参拝しました。裏側には当時の両江総督らの題名が刻まれています。

御碑亭の後は、孝陵原の主な建築享殿、すなわち孝陵殿の旧跡である。元の三層の石造の須弥座の台基、台基の高さは3メートル、台基の四隅に、まだ石の彫刻が残っているk首、台基の前後中央が中間の蓒石を踏んで、さらに二龍戯珠、日照山河、天馬行空の六つの浅彫を見ることができます。三階の須弥座には殿基があり、殿の中原には朱元璋と馬皇后神主が祀られ、咸豊三年(1853年)には兵火で壊されました。現在は本堂の基礎に大きな石56個が保存されています。これにより、当時の孝陵殿は幅九間、奥行き五間の巨大建築と推定されます。当時の享殿の規模は北京十三陵明の祖である長陵享殿よりはるかに大きかった。現在の三間の小殿は、清同治年間に二回も再建されました。当時、清政府はすでに内外に困窮し、財源が枯渇し、元のまま回復する力がなく、規模は享殿とはもはや同じではない。現在の殿はすでに「明孝陵史料陳列室」として開けられました。室内で朱元璋の肖像を見ることができます。肖像には「太祖遺像」と書いてあります。しかし、明代のものでもありません。

ここから北の方を見ると、山の峰が東西に延々と続いています。有名な鍾山です。鐘山は紫金山とも呼ばれ、寧鎮山脈の西端に位置し、東西8キロメートル、南北約3キロメートルの弧状をなしています。山上は林が生い茂り、山南麓は名所旧跡が多く、鍾山景勝地は国家級の景勝地です。その主峰の北のピークは海抜448メートルで、寧鎮山脈の最高峰です。明孝陵と中山陵はそれぞれ主峰南坡の西側と東側に位置しています。主峰に沿って西に向かって、鍾山の第3峰の天堡山で、海抜の250メートル。太平天国の時には太平軍と清軍が激戦し、今も太平天国の天城跡が残っています。今は世界的に有名な紫金山天文台が上にあります。ここから眺めると、天文台の金属の球形建築が太陽の光に輝いています。

古建筑测绘报告.. 篇5

一.测绘报告的概念

测绘报告是建立在测绘对象各方面资料收集与整理基础之上的一项重要内容,资料主要包括地方史志、文献、建筑物附属碑刻、铭文、题跋等相关史实。报告已文字形式出现,可以对图纸不易表达内容加以详细叙述说明,也可以对测绘实际遇到的情况加以记录。二.测绘对象记录

1.建筑名称:西安大学习巷清真寺 2.清真寺简介

西安大学习巷清真寺位于大学习巷路西,因处西安化觉巷清真寺之西又称西大寺。据寺内现存石碑记载,该寺创建于唐神龙元年(705年),是西安最古老清真寺之一。3.清真寺历史

西安市大学习巷清真寺位于西安市西大街大学习巷内北侧,与化觉巷清真寺东西遥遥相对。该寺建筑规模较大,仅次于东侧的化觉巷清真大寺,故又称西大寺。据寺内现存石碑记载,该寺创建于唐中宗乙巳年(公元705年)。赐名清教寺,玄宗朝改名唐明寺,元中统间赐名回四万善寺,及明洪武时赐名清真寺.是西安最古老的清真寺之一。

据唐代王鉷所撰《创建清真寺碑记》记载:“及隋开皇中,其教(伊斯兰教)遂入于中华,流衍散漫于天下。”由此可知,伊斯兰教是在隋文帝时传入中国的。而清真寺的兴建大抵在伊斯兰教传入后150年左右,只是因种种原因,屡建屡毁。唐时所建清真寺已无踪迹,西安城内保存较完整的清真寺就是今东、西两大寺,它们建造的年代最早可追溯到宋元时期,极有可能是明清时修建的。

元至明末,经赛典赤、铁铉、郑和等人几次重修扩建。明永乐、天启及清代均有碑纪其事,解放后迄今政府曾两次拨款维修。楼、台、亭殿布局庄严肃穆,外观则古老而显敞亮,结构壮观而紧凑,内观则匀称和谐,碑、雕、画多系罕见。这座清真寺占地9.1亩,总建筑面积270O平方米,由照壁、石坊(上有“政建陆次”字样)、大门、三间庭、省心阁、南北厅、碑亭、阿訇斋、沐浴室,礼拜正殿等建筑群组成。相传,省心阁建于宋代,明朝郑和四下西洋回来后重修清真寺时复修,后经多次修葺,仍保持原貌至今。4.清真寺布局

寺院建筑形式,略同化觉巷清真大寺,唯规模较小,而寺内亭、台、殿、阁布局得当。寺门对面有砖雕纹饰大照壁一座,门外临街有四柱三间石牌坊“敕建陆次”石额,镌于牌坊门楣。省心阁是该寺主要建筑之一,相传建于宋代。明郑和四下西洋回来后重建为四角形式建筑,三层三重檐。后面是南北碑亭,南碑亭内是著名的“郑和碑”,即《重修清净寺碑》,大殿前为一宽大月台,周围环以石栏。大殿门首悬挂慈禧手书“派衍天方”牌匾,殿内前中为窑殿,上方写有古兰经原文,是著名“土耳其”书法,右边是阿訇演讲台。大殿面积500多平方米,可容纳500人同时做礼拜,墙壁四周有花草图案,套刻《古兰经》和阿拉伯文。整座寺院,庄严肃穆,紧凑和谐。明永乐十二年(1413年)郑和第四次出使西洋,曾到该寺邀请掌教哈三随往任翻译。

省心阁为四角形楼式建筑,三层三重檐,布局庄严古雅,现经彩绘,映翠飞丹,玲珑绚丽,为寺内主要建筑之一。正殿前为。一宽大月台,周围环以石栏。石栏前一左右各立一碑亭,南碑亭内是著名的。“郑和碑”,即《重修清净寺碑》。正殿门首悬挂慈禧手书“派衍天方”的牌匾。殿内后中为窑殿。上方写有《古兰经》原文,系“土耳其”体书法,笔势苍劲,线条流畅。右边是阿旬宣讲台。大殿面积约为600平方米,可容纳500多人同时作礼拜。

大殿四壁饰有花一图案,套刻着古兰经和阿拉伯文的“嘟哇”,这些沥粉贴金壁板为国内合一老清真寺现存之精品,具有极高的艺术价值。清真寺的整个布局以其中前合壁的建筑手法,体现出伊斯兰教份真寺在中国的早期建筑风格。此专1956年被列为陕西省文物保护单位。2009年,该寺有阿訇3人,满拉1才人,学董7人。本坊教民有5O0户,3000人,都是回族。本坊哈吉有惠志。元阿旬、铁福全、糜子玉夫妇、铁志贤夫妇、铁志明、铁元清、惠海笠等。据该寺郑和碑记载,明永乐年间,该寺学教哈桑阿訇曾应聘作为郑和船队成员兼翻译,同下西洋,为增进中阿人民友谊作出了杰出贡献。5.清真寺风格

位于今大学习巷的西大寺,据说始建于唐中宗嗣圣元年(公元684年),由唐朝开国元勋尉迟敬德监造。但考察其建筑,已全无唐代风貌,实难成说。倒是有明嘉靖二年(公元1523年)由刘序用汉文和阿拉伯文撰写的《重修清净寺碑记》和清咸丰七年(公元1857年)所立的《敕赐清净寺碑记》,西大寺的修建历史由此可见一端。观其建筑,寺内一切完全按照伊斯兰教制度布置,设有礼拜殿、宣谕台、邦克楼、阿訇斋、省心阁、左右碑亭等;神龛朝向麦加,殿内点灯,禁用动物纹图装饰。殿上琉璃碧瓦,殿内铺有地板,彩画浮雕间有,花纹雕于石阶,充分展示出明代建筑风格。如果说西大寺与唐确有瓜葛的话,那也不假。西大寺所在的大学习巷原来只是唐长安城的一个小坊,其时,西域回纥族曾帮助汾阳王郭子仪平定“安史之乱”。唐代宗年间,郭子仪从甘肃泾川回京时,有回纥领袖及将士等200余人随从,就住在今城隍庙附近的小坊内。他们在长安逗留期间,学习唐朝的一切法令、制度和汉族的文化习俗,因此后来就把西大寺所在的这个地方称作“大学习巷”。由于回纥人在长安定居的人越来越多,于是供他们做礼拜的清真寺便应运而生了。

江苏明孝陵的导游词 篇6

明孝陵在南京市东郊紫金山(钟山)南麓独龙阜玩珠峰下,茅山西侧。占地面积约170公顷。明朝开国皇帝朱元璋和皇后马氏合葬于此。作为中国明陵之首的明孝陵壮观宏伟,代表了明初建筑和石刻艺术的最高成就,直接影响了明清两代500多年帝王陵寝的形制。依历史进程分布于北京、湖北、辽宁、河北等地的明清帝王陵寝,都是按南京明孝陵的规制和模式营建的。明孝陵建于明洪武十四年(1381年),翌年马皇后去世,葬入此陵。因马皇后谥“孝慈”,故陵名称“孝陵”。洪武三十一年(13),朱元璋病逝,启用地宫与马皇后合葬。至明永乐十一年(14)建成“大明孝陵神功圣德碑”,整个孝陵建成,历时30余年。明孝陵也是我国现存古代最大的皇家陵寝之一,至今已有600多年历史。

明孝陵地面木结构建筑大多毁于1853年清军与太平军之战,现仅存下马坊、禁约碑、内红门、碑亭中壁、石像路、方城明楼下部等砖石建筑。明孝陵布局宏雄,规制严谨,陵神道开了弯而且长的先例并影响了明清两代。陵园纵深2.62公里,当年围绕的红墙周长22.5公里。

明孝陵的秋作文1000字 篇7

植物园里有很多参天大树,阳光透过树荫洒下来,在地面上投射出斑驳的光影。我们一路追逐着阳光向植物园深处走去,不知不觉来到了一个池塘边,看到很多红金鱼在惬意地游着,好像一个个游泳健将,在水里变换着各式泳姿。突然,池边的一块大石头上,一只特别的昆虫牢牢吸引住了我们的目光。我们掏出放大镜仔细观察起来,这只昆虫非常特别,外形像蛾,足和翅膀呈灰色,上面均匀地分布着很多黑色的小圆点,初初看它,并不起眼,可当它震动时,我们发现它竟然有2层翅磅,第二层翅磅和第一层翅膀完全不同,红蓝相间的颜色,在阳光照耀下,十分炫目。我们用妈妈的手机查了它的资料,原来它的学名叫斑衣蜡蝉,俗称“花姑娘”、“椿蹦”、“花蹦蹦”,喜欢在植物上取食活动,最喜臭椿。可让我们没想到的是这么美丽的虫子竟然会对果树和其他树木造成严重危害,是名副其实的害虫,不过它也是一种药用昆虫,晒干后可以入药,对人类又有贡献,看来这小家伙真是让人又爱又恨啊。

走着走着,我们来到了一大片草坪上,虽说已到了秋季,可映入眼帘的.依然是满眼的绿,这绿中带着点黄,草坪上铺着薄薄的一层黄叶,金灿灿的,我们忍不住想捡一点落叶回去做树叶贴画。还没等我们走近,竟然看到几片“黄叶”凌空而起,在空中飞舞起来,我们这才发现,原来是几只金黄色的彩蝶,都说动物很善于伪装自己,果不其然,这几只蝴蝶差点骗过了我们的眼睛。“真是太狡猾了!”我们几个异口同声地赞叹道。

玩累了,我们坐在木桥上休息片刻看看风景。阳光一点都不刺眼,夏末初秋,公园里的美人蕉还没有卸妆,依然在尽情地绽放,光是一种美人蕉竟然就有粉红、正红、橙黄、嫩黄这么多的颜色,和塘边的灰色芦苇形成鲜明对比。突然,一阵秋风吹过,头顶的树叶哗哗的响,咦?什么东西砸在我们的小脑袋,仔细一看,树上竟然掉下来好多绿色的小果子,好像一个个迷你小山竹。我们好奇的把果子捡到一起,有些果子砸破了一个小口,我们用手一摸,竟然有粘液冒出来。猜猜这是什么呢?我们看到树边竖着一个介绍牌,原来这是“无患子”的果实,古代人最爱用它来洗手了,它可是天然的洗手液呢!而我也因为它的名字爱上了这个小果子,无患子,无患子,是不是让人没有忧患呢?

古建筑测绘与改造 篇8

作者:林钰霞

班级:1B11C3

学号:108215

指导老师:陈风焕

日期:2013.06.26

古建筑测绘与改造

————大兴善寺

摘要: 建筑与文化是一个宽广的领域,它既是历史的,又是现实的,更是未来的。建筑与文化是大众的,它们为大众所创造,也为大众所使用。中国的古建筑是灿烂的中华古文化艺术中最具独特魅力的部分,是中国古文化,古文明的标志和象佂。它凝聚着中国古代各阶层人民的智慧和才干,无论是个体建筑还是群体建筑,都是一个民族不同时期政治,经济,文化,科技诸条件的综合产物,是自然科学与人文科学的完美结合。古建筑的存在也为我们更好地了解古建筑和古文化提供了重要的参考价值。西安的古建筑风格使我对建筑文化有了更深刻的了解。

关键字:大兴寺建筑历史

大兴善寺历史:地处西安闹市的大兴善寺建于公元256年,距今约1700多年历史。这座古刹不仅是隋唐佛教走向鼎盛的起点和领导中枢,更是中国佛教密宗的祖庭,同时它还是中外佛教文化交流的重镇之一,在中国佛教史上占有重要的地位。改革开放以来,大兴善寺同中国佛教一起开始进入良性发展时期,成为西安最具活力和影响力的寺院之一。大兴善寺也是佛教密宗寺院,由于青龙寺已经焚毁,遗址上新建的只是纪念馆堂,因此大兴善寺实际上成为西安唯一的佛教密宗寺院。

隋唐时长安佛教盛兴,隋开皇年间有印度僧人那连提黎耶舍、那崛多,达摩及多等先后来华传授佛法并翻译佛经。唐玄宗开元年间又有开元三大士之称的印度高僧善无畏,金刚智,不空先后在大兴善寺翻译佛教密宗经典,大兴善寺成为长安三大译场之一。不空法师在大兴善寺传法、灌顶弘扬密法,学成归国盛弘密法,大兴善寺被日本真言宗尊为祖庭。大兴善寺是一座具有中外影响的古刹,被列为陕西省重点文物保护单位。1983年被国务院列为全国重点开放寺院之一。

大兴善寺位于荐福寺以南,过了南二环路再南行1公里的兴善寺西街,和小雁塔基本位于一条垂直轴线上。大兴善寺始建于晋武帝司马炎泰始至泰康年间(公元265-公元289 年),距今1600余年,初称遵善寺。隋文帝杨坚开皇二年(公元582年),在遵善寺的基础上进行扩建,因寺院在都城大兴城的靖善坊中,故易名“大兴善寺”。隋唐时 代,长安佛教盛行,由印度来长安传教及留学的僧侣,曾在寺内翻译佛经和传授密宗。隋文帝杨坚即位的时,下令在该寺聚集名僧和佛教学者,建立了隋代第一个国立译经馆,大兴善寺的佛经翻译在整个隋代的译经事业中占有重要的地位,所译经论在门类方面弥补了两晋南北朝时期经多论少的不足,对丰富当时各派佛学思潮做出了贡献。隋末唐初,大兴善寺的译经事业一度受到挫折。唐贞观三年(629),唐太宗诏令以印度来华高僧波顿为译主,在该寺重开译场。大兴善寺也是中国佛教密宗的发源地,唐玄宗李隆基开元四年至八年间,号称“开元三大士”的印度僧人善无畏、金刚智和不空等人来寺内主持译经并传授佛教密宗,大兴善寺由此

成为中国佛教密宗的发源地,并和当时的大慈恩寺和荐福寺一道列为长安翻译佛经的三大译场之一。前文青龙寺中提及的日本高僧空海的师父惠果,就是当时在兴善寺传教的印度僧人不空的弟子,空海学成回国,在日本东大寺创立了日本佛教的东密,并创造了日本文字,号弘法大师。因此,大兴善寺也被认为是日本佛教密宗的祖庭。

唐武宗会昌年间大举灭佛,全国有4600余座寺院被拆毁,大兴善寺亦难逃劫难。以后屡有重修,以清康熙年间(公元1662——1722年)的修复工程最多,先后重修了方丈、殿堂、钟、鼓楼和山门等。但到清同治年间,寺院建筑再次因回民**被毁,仅存钟、鼓楼和前门。建国后自 1955年冬季开始,对全寺的建筑进行了大规模翻修,但在“文革”中又遭破坏。1996年,界明方丈暨两序着手恢复昔日辉煌的密宗祖庭,现在寺内建筑群包括山门、金刚大殿、钟鼓楼、观音殿、方丈室等。

大兴善寺结构:从刻有“大兴善寺”石额的山门入内,是弥勒殿内奉明代托纱金装的弥勒菩萨像;两侧塑有密宗特色的四大天王。其后是大雄宝殿供奉着三方佛:中为释迦牟尼佛;东为药师佛;西为阿弥陀佛;两边是十八罗汉,塑像庄严,赤金装饰,辉煌夺目。大殿两侧钟、鼓楼内有寺僧监制的直径1.5米大鼓。穿过大雄宝殿,汉白玉台上站立着慈祥、庄严的平安地藏菩萨青铜塑像,是日本国真言宗空海大师同志会,为体现日本真言宗信徒缅怀祖庭,增进中日友好交往而赠送的。

过唐转法轮殿

雕梁画栋,飞檐凌

前月台宽阔,方砖

栏。殿内正中莲台

装饰的千手千眼观

面是一株树龄三百

龙虬曲盘绕,蜿蜒

意盎然。东西配殿

雕释迦牟尼佛和卧

阔七间大殿即法堂,绪手书的“觉悟群

大日如来,稍间为

地120余亩,殿堂、木花卉,四季常青,还珍藏有名人字画

历史遗物。

为了适应社会的发展,界明方丈暨两序僧众对大兴善寺作出全面规划,总体规划突出了佛教寺院的特点,一是以寺院现有建筑为主体的建筑群:山门殿、天王殿、大雄宝殿、三佛殿、菩萨殿、说法堂、罗汉堂、议事堂、佛学院、藏经楼称为五殿、三堂、一院、一楼。二是东西园以旅游、观赏为主的亭、廊、阁、榭以及佛教宾馆、素食斋、茶苑、盆景花卉等寺庙园林景观。整体设计以佛教建筑为中心,形成南北平行的三条轴线,布局合理、功能齐全、建筑宏伟。

遗址是宏伟轩昂的观音殿,空,古朴中透出华丽,殿铺地,有雕刻精美的青石护上供奉着香樟木雕刻、赤金音菩萨像。转过观音殿,迎余年的紫藤最为珍奇,如苍于栅架之间,古朴苍劲,绿分别供奉从缅甸请回的玉佛。往北拾级而上是一座面正门上方挂有清末皇帝光生”匾额,殿内供奉密宗的东、西方丈室。整个寺院占僧舍243间,寺内种植名郁郁葱葱,景色宜人,寺内及历代修葺寺院的碑石等

材质:大兴善寺的建筑以木材、砖瓦为主要建筑材料,以木构架结构为主要的结构方式。连接工具主要有立柱、横梁。颜色主要为中国红。

优点:梁柱承重、外墙起遮挡阳关、隔热防热耐寒的作用,内墙起分割室内空间的作用。墙壁不承重,建筑物具有极大的灵活性。防震、抗震,类似框架结构“墙倒屋不塌”,所以得以历经千年不倒。

调研感想:大兴善寺虽然年代已经久远了,但它们的建筑特色依然影响着我们,从这次的观察中,我们可以研究盛唐时期建筑的伟大与壮观以及盛唐时的繁荣。不大的大兴善寺却是中国几千年历史的沉淀结晶,一个个细节,雕刻、彩绘、图案、雕塑都有着它们自己独特的寓意含义,身居城市的我们不能忘记祖先留给我们的美的文化,我们在学习现代科技的同时,更要传承中国的传统文化知识,延续我们的文化民俗。

中国古代建筑不仅造型美丽大气,它们的建筑色彩与装饰也是极其漂亮的。我国古代建筑综合运用了我国工艺美术以及绘画,雕刻,书法等方面的卓越成就,如额枋上的匾额,门窗上的柩格等等,都是既丰富多彩,变化无穷,又具有我国浓厚的传统的名族风格。

古建筑测绘心得体会 篇9

——纯阳宫测绘心得 太原纯阳宫,道教著名宫观。在山西省太原市五一广场西北隅,又名吕祖庙。始建于元代,明代万历年间I(1573—1620)重修,清代乾隆年间(1736—1795)曾有整修与扩建。

纯阳宫做为我们专业的实习基地,我们早在大一的时候就对它进行了认知调研,那也是我第一次如此近距离的接触和发现古建。而这次我们在朱向东和王崇恩老师的带领下对纯阳宫进行为期两个星期的测绘实习,在实习过程中我们不仅要对纯阳宫每个建筑进行测量,而且还对每个建筑的部件都进行了准确的测量和绘画,使得我们更深入的了解这座沉淀着浓厚文化和历史的古建筑群。

纯阳宫的古色古韵,并非我在第一次认识它的时候就这样认为,而是通过此次的测绘过程中一滴一点的在我心里烙下深深的痕迹。去过纯阳宫的人都会发现,纯阳宫的占地不大,但它的布局精巧而深邃。后面两院为楼阁式建筑,错落有致,曲折回旋,徜徉此间,大有“山重水复疑无路,柳暗花明又一村”之感。后院巍阁为观中最高建筑,登阁环眺,置身于琼楼玉宇之上,独具匠心的布局在宫观祠宇中实属少见。纯阳宫是一座集庙宇、园林风格为一体的五进院落,院内亭台楼阁样样皆有,每一进院都有自己独特的古色与古韵。比如第一进院的木牌坊,它的斗拱结构看是复杂,却处处存在着结构的精妙和美观,这就是古人智慧的结晶。再比如殿后的那座院落建筑格局颇为独特,据说是按八卦的方位而建,具有鲜明的道教建筑特色,也是整个纯阳宫的精华所在。

而这次我们组主要测绘的是第三进院及四进院的角亭部分,这个也是纯阳宫主殿吕祖殿所在的位置。吕祖殿面阔三间,雄伟壮观,殿内原奉吕洞宾塑像。在测量过程中,我们对这个建筑的四个立面,平面以及屋顶进行的数据测量。不管是屋顶众多精美的吻兽,还是额枋上富丽的绘画,都使得整个吕祖殿围绕在古色古韵之中。在平面测量中我们还发现吕祖殿前护栏上的狮子每两个的造型不仅不同,而且特别精美独特,因此我们组还特地做了组关于狮子造型的特测,做为纯阳宫的一又独特的发现。中央主殿与两边的厢房的格局,也完全在我们学习中国古建布局的认识之中,所以说纯阳宫不仅是中国道观古建筑的代表,也是中国古建的精华。四进院的角亭也是我们重点测绘的部分,也是我们这组分给我的主要任务。从平面上看,它并不是一个规整的八角攒尖亭,它的南立面和西立面成直角分布,这虽然增加了我们测量的难度,却也让我们认识了一种新的角亭分布方式。除此之外,在测量过程中我们还发现整个角亭每个面的数据都是不同的,为了尊重原建筑的造型,我们全部真实的记录了现在建筑的数据,做为对古建的尊重。角亭额枋上的绘画也引起了我们足够的重视,每个面的绘画虽是同一种风格,却内容不同,这也许就是古人对建筑趣味的所在吧。

为了这次的测绘心得的成稿,我最后一个人还特地的去了一次纯阳宫,不过这次是做为一个纯游客。当我穿过每一进院时,细细去品味每个建筑散发的独特古韵,仿佛自己脱离了现代的时空,陶醉于这古色古韵的世界。尤其当我走完整个纯阳宫,站在巍阁俯瞰整个纯阳宫时,那种沉淀着浓厚历史和古韵充溢心田。此时的我只能闭上双眼慢慢去感受,细细地去回忆纯阳宫的古色古韵。

颜家盾

屏山古建筑测绘实习报告 篇10

一、实习目的

本次测绘实习通过对古建筑的测绘,增强我们对中国传统建筑的感性认识,主要是针对中国古建筑的构造、材料以及艺术空间手法的处理加强深入了解,以深化大三上学期对中国古建筑史的理论学习,同时也提高我们的动手能力和培养大家的团结合作精神。

二、实习时间与地点

1、时间:2015年10月26日至11月9日

2、地点:黄山市黟县屏山村

三、测量工具

5m钢卷尺、30m皮尺、激光测距仪、等

四、测绘实习人员 王若彬,史强强,程年胜

五、屏山村

屏山村,地处世界文化遗产西递、宏村之间。唐宋时称长宁里;后因村北屏风山妆如屏风,得名为 屏山村;又因明清建制曾属徽州府黟县九都,故也称九都舒村。该村以舒姓聚族而居。舒姓是伏羲九世孙叔子的后裔,唐末庐江迁居长宁里,至今已有一千一百多年历史。屏风山阳之水与吉阳山阴之水汇合,蜿蜒贯村而过;村头水口的长宁湖积水聚财,与红庙、华佗井等古迹阴阳调和,平静长宁,中国古代风水学说在这有典型体观。村内保存有光裕堂、成道堂等七座祠堂,其中舒庆余堂是中国皖南少见的明代宗族祠堂。

该村存有明清民居两百余幢,还有三姑庙、御前侍卫贴墙牌坊、长宁湖、舒绣文故居、玉兰庭、葫芦井、小绣楼等名胜古迹。春风细雨桃花水涨;夏日纳凉,柳垂扬郁;秋夜赏月,水映桥动;冬季踏雪,竹翠笋萌。在中国桃花源--黟县这块古老的土地上,素有“小桥流水,田园人家”美称的九都舒村,以其独具的风水村落特色和悠久的古黟风情历史,向世人展示 着无穷的魅力。

六、测绘实习内容

1、建筑的总平面图。这是对非单体建筑,即如有院墙、道路等构筑物的建筑而言的。测绘总平面图应该准确地表现出各单体建筑之间的相对位置和间距,使其总体布局和环境一目了然。

2、单体建筑的平面图。这一项内容的测绘相对容易。对于大部分的建筑一般只需皮卷尺、钢卷尺、就可以测出所有单体建筑的平面图。测绘平面时最重要的是先确定轴线尺寸,之后单体建筑的一切控制尺寸都应以此为根据。确定轴线尺寸后,再依次确定台明、台阶、室内外地面铺装、山墙、门窗等的位置,平面图就确定了。

3、单体建筑的正立面、侧立面、背立面。对于法式测绘,因为没有搭架,无法上到建筑物上用皮卷尺测量高度,所以这一类立面图都必须借助辅助工具进行测量。粗略测量时,我们可以仅借助皮卷尺和估测的方法测出高度。但是要用做档案记录时,单层的建筑,可利用的反射点就可以通过激光测距仪测出高度。

4、单体建筑的纵剖面、横剖面。测量方法与测绘立面图的原理一样。不同的是剖面图要更清晰地表达出各层之间的构造关系.5、屋顶平面图。与平面图恰好是相对应的。

6、大样图。包括了各种门窗、梁架等部分的大样。因为这类装饰构件的线条、图案都非常复杂,甚至是一些人物、花鸟、虫鱼图案,而按照测绘的要求是要一一表现在大样图中的,这往往是古建筑测绘中最耗时、难度最大的。在法式测绘中,最好的方法是借助数码相机拍下各个大样的正、侧、底面的照片,然后测出各个大样中重要的控制点的距离,通过比照数码照片绘出大样图。

七、实习感受

首先对古建筑有了一个系统的认识。屋顶的形式,建筑的组成,结构类型,以及结构特 点,彩画的分类及特点„„中国古代建筑的历史内涵是博大精深的,然而,我们平日里对古建筑的关注太少了,经过这次测绘,我们又对古建筑的知识进行了更多的了解以及巩固。另外由于这次对古建筑深入的测量也激发了我们对古建的兴趣,在以后的学习中会更多的关注中国传统的建筑,中国传统的文化。其次,加强了我们独立思考问题的能力。由于测量中有很多地方无法具体的量到,只能靠估算,大家就集思广益想了很多方法。再次,培养了我们认真严谨的态度。由于古建中有很多部件,我们就必须对每个部件的每个尺寸进行测量,进行记录。同样,画草图,校对数据,画正图都需要认真仔细,通过这次测绘,这在以后的学习乃至工作中都无疑是一种很好的品质。最后,加强了我们的团队合作精神。这次测绘是以小组的形式进行的,因此大家必须分工合作,既要把自己的任务完成,又要协助队友测绘。屏山九天的测绘让我学到了许多,虽然中建史的课本上说得很详细,但是对于古建真正的了解还不如这几天学到的东西,凡事只有亲身经历才不会容易忘记。对于古建的结构,简化的斗拱怎么支撑屋梁,檐角如何翘起?我们在做平立剖时是将古建重新建造了一遍,这种过程让我们加深了对于古建的了解,虽然这只是万千古建中的一种,但是我觉得中国古建的结构是万变不离其宗的。其实这次让我真正的收获是让我知道了实践的重要性,以前都是闭门造车,我想以后我会改变这种现象,多注重观察,去深入了解。一周的测绘实习让我们学到了很多,我相信这是可以激励我们一生的宝贵财富。

屏山古建筑 测绘实习报告

班级:13建筑学一班

学号:1301081011

姓名:王若彬

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